高山祭の歴史

高山祭の歴史

高山祭の起源や歴史的背景

高山祭とは

高山祭は、毎年4月14日・15日に行われる日枝神社(ひえじんじゃ)の山王祭(さんのうまつり)と、10月9日・10日に行われる桜山八幡宮(さくらやまはちまんぐう)の八幡祭(はちまんまつり)の2つの総称です。

日枝神社

春の高山祭(山王祭)が行われる日枝神社

桜山八幡宮

秋の高山祭(八幡祭)が行われる桜山八幡宮

起源

現在の祭の起源は、戦国時代から江戸時代にかけて織田家~豊臣家~徳川家に仕えた戦国武将(金森長近公を祖とする)金森氏の飛騨治世の時代(1585年~1692年)にさかのぼります。

今のような祭屋台のある祭は、文献によりますと享保3年(1718年)頃から始まったと言われています。
(起源等については、リンク集 櫻山八幡宮 日枝神社のホームページの沿革をご参照ください。)

屋台の発生

屋台が登場したのは、宝永5年(1708年)八幡祭の神楽台が始めと言われています。(金森家寄進の太鼓を乗せたもの)
その後享保年間に八幡祭の行神台・神馬台・金鳳台などが次々と創建されていきました。

山王祭の屋台が現れたのは、八幡神楽台創建の40数年後に石橋台、その数年後に三番叟・・・と1700年代の後半に掛けて多くの屋台が出現してきたようです。「まちの博物館」の絵巻にもあるように、発生当初の屋台は江戸型であったようです。

八幡祭 神楽台

八幡祭 神楽台

山王祭 石橋台

山王祭 石橋台

絵巻の屋台

絵巻の屋台

※ 使用している絵巻の屋台の画像は、「飛騨高山まちの博物館所蔵」の「高山山王祭礼行列絵巻」です。

屋台の進化

屋台の形態や構造が整い、進化を始めたのは文化・文政(1804年以降)年間の頃からと言われています。この頃から、社会生活のコミュニティ組織であった屋台組の人々は自分たちの屋台を宝として、強固な結束のもと屋台を進化させていきます。
屋台が火災や破損によって改修される度に、他の屋台組には負けまいと、凝った意匠や装飾が考案され形態も少しづつ変わっていきました。

胴幕

胴幕

飾り

飾り

装飾 亀

装飾 亀

財力を持った旦那衆と呼ばれる豪商が中心となって、屋台の改修に金を出し飛騨の匠の流れを汲む工匠たちに技を競わせ、それまでの江戸型の屋台から雅な京風の屋台へと進化させていったのでした。

彫刻 龍

彫刻 龍

彫刻 獅子

彫刻 獅子

戻し車

戻し車

当時の豪商たちは、華美な胴幕・御簾・房・瓔珞など懸装品を遠く長崎や京都より手に入れて、まさに「豪華絢爛」な屋台へと変貌させていったのでした。(現在の高山型屋台の誕生)

屋台の蔵

屋台の蔵

また昔は、屋台を分解して組内で分散保管をしていましたが、屋台の大型化や度重なる火災での焼失を防ぐ為に、そのまま保管できる土蔵(屋台蔵)が造られるようになりました。

屋台蔵の扉の大きさは、片方で幅1.3m、高さ6m、土蔵の厚みは30cmもあり、その重さは数トンにもなりますが150年近く経った今でも傾きや狂いも出ていません。白壁土蔵は町内の防火壁という役割も含め、高山の町並みの景観を保持する役目も果たしているのです。

屋台保存会

豪商の経済力が「豪華絢爛」たる高山の屋台の進化を支えてきましたが、第2次世界大戦後GHQによる「農地改革」や「財閥解体」が実施され、その影響は地方の豪商にまで及びました。

ユネスコ無形文化遺産登録記念 高山祭屋台の総曳き揃え

ユネスコ無形文化遺産登録記念 高山祭屋台の総曳き揃え(平成29年4月)

そんな中、屋台組の人々は、自らの力と新しい時代の行政機関との連携により屋台の修理や保全・保存の手立てを考え、全国の他のお祭りに先駆けて「高山屋台保存会」を昭和26年(1951)に立ち上げました。

こうした運動が実り、昭和35年(1960)に「国指定重要有形民俗文化財」に昭和54年(1979)には「国指定重要無形民俗文化財」となり、平成28年(2016)ユネスコの世界無形文化遺産にも登録されることになったのです。

現在は、少子高齢化による中心市街地の人口減少や、ライフスタイルの変化による祭礼意識の形骸化など直面する課題もありますが、先人たちが造り・守り・育ててきた伝統・文化の極みでもある祭、屋台を、今の時代を生きるものとして必ず次世代へ・未来へと繋いでいくために、25組の保存会会員一丸となってそれぞれの屋台を守っているのです。

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